宮地尚子「傷を愛せるか」、望月昭秀「縄文人に相談だ」

だいぶ前に読み終わっていたのに、書き残しておくのを忘れていた。

 

ここ数か月、自分で書いた小説を読み返すということをしていたので、しばらく小説は読みたくないなあと思って(無意味に凹む可能性があるから)、手にした2冊。まったく毛色が違うように見える2冊だけど、どちらも私を受け入れてくれる、度量の大きい本だった。

 

いろんな状況や背景のある人、そして自分自身と真摯に向き合ってきたのだろうなあ、ということが滲み出ている文章だった。真摯に向き合う、ということは、でも、すべてのものに一定の距離をとる、ということなのかもしれない。他人や研究は勿論だけど、自分のことも、少し離れた場所から自制をきかせてずっと見つめつづけることは、きっと容易ではない。傷を愛せるか、という問いは、たぶん一生続くような気がする。

 

縄文時代」と現代人はひとくくりにしているけれど、そう呼ばれている時代はとても長い。1万年の時に思いを馳せる人が、最近増えているらしい。かく言う私も、その1人なわけである。現代人の質問や悩みに、縄文人(に扮した現代人)が答える、という、ふざけるなと怒る人が出てきてもおかしくない本である。だが、この本を読む人にそんな人はいない気がする。何故かはわからないけれど、縄文好きな人って、無条件に縄文好きに謎の信頼感がある。そんなわけで、面白く読める。縄文時代は、どんな想像も受け入れてくれる、心の広さがある。