映画「掘る女 縄文人の落とし物」

 

あまり言ってなかったけれど、私は意外と縄文時代のものを見るのが好きだ。つまり、土器とか土偶とか、そういった類のもの。博物館にある貝塚の展示をぼーっと見るのも面白い。そういう類のものは、必ず掘られている。私は、掘ったあとのものしか見ていない。そんなわけで、それらを掘っている人のドキュメンタリー映画を見にいってきた。

 

映画の出だしの、掘ったものは遺失物として警察に届け出る、というエピソードからして、めちゃくちゃ興味をそそられる。落とした人はわからなくても(まあ縄文人であることは違いないけど)、落とし物になるらしい。土器が落ちていたら、落とし物か、まあそうか。

 

掘る人が何人か出てくるのだけれど、みんななんだか、目をキラキラさせている。楽しそうに、掘る。勿論、何も出てこないことの方が多くて、そういうときはモチベーションが下がっていそうだけど、でも、それでも掘る。そうして、何か、が出てきたときの心臓がドキドキしているのが、見ているだけで伝わってくる。ああいうドキドキのために、掘るのをやめられないのかもしれない。

 

それと同時に、掘って調査したあとは、大抵埋めなおされるということにも驚いた。道路や建物を作る途中で発見された場所を調査するとなると、そりゃあそうなるよなあ。三内丸山遺跡とか、遺跡として遺してある場所は、実は貴重なのだと気付く。道路を早く作ってほしい、建物を早く建てたい、という人たちと、発掘調査をしたい、という人たちがいて、それはもう相反する気持ちだなあ、と思う。今の生活という現実は、発掘するというロマンや夢では解決できないこともある。

 

じゃあ、考古学はなんで存在するのか、という問いがすごく心に残った。

 

しかし、自分が今歩いている道の下にも、住んでいる家の下にも、たぶん、何か、が必ずある。そういうものの類でも、他の時代の何かでも。そうして、1万年後には、自分が今いる地面が掘られるのかもしれない。これはアスファルトだな、とか言われちゃうのかもしれない。という想像をする方が好きな私は、やっぱり掘るより、掘られたあとのものを見る方が好きみたいだ。

 

最近、私は八戸にある是川縄文館に行って、合掌土偶を見てきたばかりだったので、それが発見されたときのことを話す二人の興奮した様子を見て、すごい笑ってしまった。発見されたときの姿を体現する二人が、とても可愛い。国宝みたいなものが発見されるときって、あっさりした感じなのだろうなあ。