能町みね子「オカマだけどOLやってます。完全版」「トロピカル性転換ツアー」

今更、一気に2冊続けて読んでしまった。

 

前から書いているけど、私はエッセイとか日記とかをあまり読まない。なんというか、このもやもやとした気持ちを伝えきれないと思うのだけど、その人の日常生活を垣間見たいと一切思わない(言い換えれば見てほしくないということかもしれない)から。でも、公に発表されている本だから読んでもいいってことなんだよなあ、と思いつつ、読んで知ることの怖い感じも拭えず、読む読まないを行ったり来たりして、よくわからないタイミングでついに読んだ。そして、すぐ読みおわる。結局知りたかったんじゃん、と自分に呆れる。

 

さらっと面白く書かれているけれど、ところどころでつらい気持ちにもなる。なんでなんだろう。でも、一番つらくなったのは持病のくだりのところで、身内が心臓病で亡くなったからであった。今もこの人が生きていてよかった。読書って、自分の体験と主観を通して、感じるものが限定されるのかもしれない。

 

私は女子校に通っていて、そこで性別がない状態みたいに生活したせいか、性別とかなければ生きやすいのに、とずっと思っているし、いまだに自分の位置取りがわからないでいる。曖昧に生きたい。

 

生きていることも、どんなふうに生きられるかも、運なのかもしれない。そんなことを書くと、いろんな人に怒られそうだけど。でもこの人は、行った先々でいい人に出会える運があるんじゃないかなあ、と思える本で、それは努力して得られるものじゃないし、やっぱり運じゃないのだろうか。人って、どうしても、他人を羨ましがってしまうものだよなあ。

丸谷才一「闊歩する漱石」

とりあえず、夏目漱石のことだけを書いて、本が1冊成り立っているのがすごい。

 

私はただのミーハーな夏目漱石好きだから、彼を分析しようとなんて思わず、ただただ面白いなあ、と思って読んでいるだけ。その面白さをこうして事細かに説明されると、夏目漱石がいかに古典や(当時の)現代文から多くのことを学んで、そこから実体験や環境、時代などを反映して、小説として昇華している、ということを気付かされて、ただただもう、その知識量と活かし方に圧倒される。それと同時に、こうして分析できるということは、つまりこの人の知識量もすさまじく、1冊で2人に圧倒される、というとんでもない本。

 

小説はゼロからできるわけではなく、過去の小説の様式や流行を知って、その小説を真似たり実験したりすることでできあがる、というような文章があって、そういえばそうだよなあ、と思うと、自分の書くものが新しくならないのは、学びが足りないのだな、とひたすら反省してしまうのだった。

瀬川拓郎「アイヌと縄文」

7月に北海道の礼文島に旅行に行ったのだが、その前に読もうと思っていたのに、結局帰ってきてから読み終わった。やっぱり読む前と後では印象が変わっただろうなあ、と思うと、もう一度どうにか行きたい、と思ってしまう。

 

縄文時代(それより少し前かも)からの北海道の歴史を、とても丁寧に書かれていると思う。この本を読むと、人間つきつめていけば、何人とか何系とかもなく、同じところに辿りつくんじゃないのかなあ、と思うのだけれど、どうして分けて考えたり、ないものとして考えたりするのだろう、と疑問がわく。

 

北海道は、当たり前だけど広いので、地域ごとに歴史や文化が違う。極地に行けば行くほど、大きな流行や政治の影響がやってくるのが遅くて、昔の文化は残りつづけるというのを見て、なるほどなあ、とものすごい納得してしまった。それを大きな流れから見て、遅れているだとか、野蛮だとか、そんな大雑把な物言いをするほうが、よっぽど古臭いことだと思う。

 

今の時代に、文化と呼べるものがあるのだろうか。文化って、何なんだろうか。

望月昭秀、田附勝「蓑虫放浪」

8月に読み終わっていたのだけれど、気付いたら10月…私もどこかへ放浪していたようだ(嘘です、暑すぎてパソコンを触っていなかっただけです)。

 

こんな人がいたのか、と本当に初耳だった。そして同時に、こんな人になれたらいいのに、と憧れと嫉妬みたいな気持ちが出てくる。読んだら、こんな人になるのはとてもじゃないけど難しい、と誰でも思うだろうけど。

 

絶妙にゆるい絵を描くことに、人柄が表れているような気がするのだけれど、こんなにも愛嬌があって、人に好かれるような人間には到底なれない。好きなものを探しにいって、好きな人のいるところに行って、自分の居心地のいい場所を見つける、そういうのって才能なのかもしれない。羨ましい。

 

この本を読んだあとに、亀ヶ岡石器時代遺跡に私も行ってみたのだけれど、もしかしたらこのへんを蓑虫も歩いたのかもしれないなあ、というか、随分遠いところから歩いてきてるんだよな、と思ったら、私はまず体力をつけなければならない、と実感した。木造駅近くの博物館(カルコ)に、ちょっとだけ蓑虫の展示があったので、この本を読んで面白いと感じた人は、是非行ってみることをおすすめします。

映画「658km、陽子の旅」

映画の真ん中くらいで、突然号泣してしまった。

 

東京から青森までの658kmをヒッチハイクをして辿りつく、という話なのだけれど、こう書くとまるで、アクティブで前向きな人の話に見えてくるから不思議なものだ。まったくアクティブでも、前向きでもない、ほぼひきこもりの、コミュニケーションを他人ととることが難しい人の話。

 

私にとっては常磐道東北自動車道も見慣れた景色で、だんだんと青森に近づくにつれて、景色と記憶がない交ぜになっていく。それは良い記憶でも、悪い記憶でも。この話の主人公も、映画の中で良い記憶も悪い記憶も思い出していくし、新しい記憶も加えられていく。他人の悪意や善意に、真正面から向き合うことになるのだけれど、人と関わらないように生きてきた人にとって、それはとても重労働だ。とても苦しい。

 

主人公のことを、これは自分のことだ、と思う人は、今の世の中には沢山いるだろう。かく言う私もそうだ。今、私が青森に向かっている。悪意に傷つけられて、善意に救われて。

 

人と上手く関われない人間には、握手をすること、人と触れ合うことは、とても怖い。それでも、怖さのない握手をした瞬間、私はその姿に感謝したくなるのだった。

 

青森にようやく着いたとき、これは青森市じゃない、と行ったことのある人は気付くと思うのだけれど(弘前である)、山とリンゴの絵を描いたのだから、そりゃあそうか。青森から、というよりは、東北から東京までは、なんだか見えない壁を感じる。だから、何もない、と陽子は言うけれど、青森から東京に出た陽子はそれだけで偉いよ、と私は言いたい。