映画「658km、陽子の旅」

映画の真ん中くらいで、突然号泣してしまった。

 

東京から青森までの658kmをヒッチハイクをして辿りつく、という話なのだけれど、こう書くとまるで、アクティブで前向きな人の話に見えてくるから不思議なものだ。まったくアクティブでも、前向きでもない、ほぼひきこもりの、コミュニケーションを他人ととることが難しい人の話。

 

私にとっては常磐道東北自動車道も見慣れた景色で、だんだんと青森に近づくにつれて、景色と記憶がない交ぜになっていく。それは良い記憶でも、悪い記憶でも。この話の主人公も、映画の中で良い記憶も悪い記憶も思い出していくし、新しい記憶も加えられていく。他人の悪意や善意に、真正面から向き合うことになるのだけれど、人と関わらないように生きてきた人にとって、それはとても重労働だ。とても苦しい。

 

主人公のことを、これは自分のことだ、と思う人は、今の世の中には沢山いるだろう。かく言う私もそうだ。今、私が青森に向かっている。悪意に傷つけられて、善意に救われて。

 

人と上手く関われない人間には、握手をすること、人と触れ合うことは、とても怖い。それでも、怖さのない握手をした瞬間、私はその姿に感謝したくなるのだった。

 

青森にようやく着いたとき、これは青森市じゃない、と行ったことのある人は気付くと思うのだけれど(弘前である)、山とリンゴの絵を描いたのだから、そりゃあそうか。青森から、というよりは、東北から東京までは、なんだか見えない壁を感じる。だから、何もない、と陽子は言うけれど、青森から東京に出た陽子はそれだけで偉いよ、と私は言いたい。