太宰治「斜陽」

 

斜陽 (新潮文庫)

斜陽 (新潮文庫)

 

 この人って、長編をあまり書いてないよなあ、と今更思った。私が読んでいないだけだろうか。

 

チェーホフの「桜の園」がモチーフとしてあるらしいのだけど、「桜の園」は題名からして、喜劇、と付いているわけで、人間の滑稽な部分を描いているはず(随分前に読んだので、内容を忘れているすいません)。この話は、ダメになっていく人間をどんどんダメにしていく感じ。人間ってこんなもんでしょう、と見せられている感じ。

 

ただ、その中でもやっぱり女の人は強いものとして描かれている気がする。この人って、本当に女の人が好きなんだろうなあ。というか、高すぎる理想の女のことが好きというか。憧れを持ちすぎたんだろうか。

太宰治「ヴィヨンの妻」

 

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

 

今になれば、晩年の作品、ということになって、だからこんな卑屈な感じが強いんだなあ、と思ってしまうけど、この卑屈さを抜け出せたら、また違う話を書けたかもしれない。

 

この人の話は、卑屈さもあるけど、あっけらかんとした楽観的な部分も入り混じった、喜劇っぽいところが好きなんだなあ。この本はちょっと、悲劇ぶっている気がする。

太宰治「女生徒」

 

女生徒 (角川文庫)

女生徒 (角川文庫)

 

 久々に読んだら、すごい好きで、ビックリした。こんなに好きな話だったかなあ。年を取ると変わるなあ。

 

ただ、たまにこの人って、女の人のこと全然わかってないんじゃないか、と思ってしまう文章がある。まあ、だからあんな生き方だったのか、と考えてしまわざるを得ない。

安部公房「壁」

 

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

 さて、連続してこの人の本を読んできたけど、これにて終了。私の中ではわりとコメディっぽい文章なのに、なんでここまで怖くなってしまうのか。悲劇と喜劇は、隣りあわせとか表裏一体というより、同質のものなんだなあ、と思う。

 

自分が自分であることが、すごく不確かに思えてくる。自分と他人の境目って何なのだろう。ヒトという名前を付けて、生まれた子供に名前を付けて、たしかに人間であると言い聞かせ、思い込んでいるだけだ。自分であることから逃げられないけれど、もしも誰も私を私だと認識してくれないとしたら、本当に私は私と言えるんだろうか。

安部公房「箱男」

 

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

 これも前に読んだはずなんだけど、すっかり内容を忘れているものだなあ。というか、「砂の女」と「箱男」と「壁」が結構ごっちゃになっていたみたいだ。

 

箱男の言う「箱」は、本当はどこまでの範囲をさしていたんだろう。段ボール箱そのもののことだけを言っているようには思えなかった。最近の人たちは、箱を簡単に用意することができる。今では、インターネットが便利な箱となって、見られることなく見る、という行為を容易にすることができるんだなあ。見ることだけをしたがる人間の欲望は、際限がない。でも、見られることを放棄したら、本当に人間だって言えるのかしら。箱男として生きていく覚悟は難しいはずなのに、近頃はスイッチひとつですぐになりきれる気がする。

 

すごい小説家って、何かの恐ろしい力が働いているのか、たまに予言者みたいだなあ、と思って、怖い。