今になれば、晩年の作品、ということになって、だからこんな卑屈な感じが強いんだなあ、と思ってしまうけど、この卑屈さを抜け出せたら、また違う話を書けたかもしれない。
この人の話は、卑屈さもあるけど、あっけらかんとした楽観的な部分も入り混じった、喜劇っぽいところが好きなんだなあ。この本はちょっと、悲劇ぶっている気がする。
今になれば、晩年の作品、ということになって、だからこんな卑屈な感じが強いんだなあ、と思ってしまうけど、この卑屈さを抜け出せたら、また違う話を書けたかもしれない。
この人の話は、卑屈さもあるけど、あっけらかんとした楽観的な部分も入り混じった、喜劇っぽいところが好きなんだなあ。この本はちょっと、悲劇ぶっている気がする。
久々に読んだら、すごい好きで、ビックリした。こんなに好きな話だったかなあ。年を取ると変わるなあ。
ただ、たまにこの人って、女の人のこと全然わかってないんじゃないか、と思ってしまう文章がある。まあ、だからあんな生き方だったのか、と考えてしまわざるを得ない。
さて、連続してこの人の本を読んできたけど、これにて終了。私の中ではわりとコメディっぽい文章なのに、なんでここまで怖くなってしまうのか。悲劇と喜劇は、隣りあわせとか表裏一体というより、同質のものなんだなあ、と思う。
自分が自分であることが、すごく不確かに思えてくる。自分と他人の境目って何なのだろう。ヒトという名前を付けて、生まれた子供に名前を付けて、たしかに人間であると言い聞かせ、思い込んでいるだけだ。自分であることから逃げられないけれど、もしも誰も私を私だと認識してくれないとしたら、本当に私は私と言えるんだろうか。
これも前に読んだはずなんだけど、すっかり内容を忘れているものだなあ。というか、「砂の女」と「箱男」と「壁」が結構ごっちゃになっていたみたいだ。
箱男の言う「箱」は、本当はどこまでの範囲をさしていたんだろう。段ボール箱そのもののことだけを言っているようには思えなかった。最近の人たちは、箱を簡単に用意することができる。今では、インターネットが便利な箱となって、見られることなく見る、という行為を容易にすることができるんだなあ。見ることだけをしたがる人間の欲望は、際限がない。でも、見られることを放棄したら、本当に人間だって言えるのかしら。箱男として生きていく覚悟は難しいはずなのに、近頃はスイッチひとつですぐになりきれる気がする。
すごい小説家って、何かの恐ろしい力が働いているのか、たまに予言者みたいだなあ、と思って、怖い。
一度読んだはずなんだけれど、本棚を探してもなくて、実は読んでなかったのだろうか。でも、既視感があったから、たぶん読んだんだろう。どこへ行ったのやら。
始終、怖いなあというか、気味が悪いなあというか、不安だなあ、というあんまりいい気分にはなれない話。この人の話って、だいたいそういうものだと思うけど。最初の方は、謎解きしていくような、主人公がどうやって現状を解決するかを事細かに書かれているのに、いつの間にか、主人公の心情が変化していくことにスポットライトが当てられ、あれれ、という感じ。冒頭で結論が出ているサスペンス風味の話なんだけれど、たしかに事件の話でもあるのだけれど、結論や結果まで、過程のじわじわと心情を侵していく出来事が、居心地悪い。
最近は、田舎暮らしを美化する感覚もあるけど、それって本当のところはどうなんだろう。土着とは果たして何なのだろう。郷土を愛する、という気持ちは、本当のものなんだろうか。人は簡単に(もしくは強制的に)変化するんじゃないのかしら。
ちなみに、なんで読み返そうと思ったかというと、spoken words projectという来期の服のテーマが、この話らしい、と聞いたからである。どうなっているのかなあ。