尾崎翠「第七官界彷徨」
とあるところで紹介されて、興味をひかれたので読んでみた。
少女まんがのような感じ、と言われていたけれど、なるほど、今だったら映画化とかドラマ化とかされそうな気がする。登場人物たちを正常な心理じゃない人たちにしたかったらしいのだが、今ではこういう人がありふれているような気がして(昔よりは許容されるようになったからかもしれない)、だからこそ今、単発ドラマで見たら面白そうだなあ、と思うのかもしれない。
小説そのものよりも、最後に載っている、自らでの解説っぽい文章の方を興味深く読んでしまった。この話の書いた方法なんかも書かれていて、それでこんなふうに、1つ1つの場面の個性が強く、ぶつりぶつりと繋ぎあわせたような読後感だったのだなあ、と納得した。場面1つずつが1つの短編小説としても読めるくらい、濃いと思う。
内田百閒「続 百鬼園随筆」
続の付いていないものを読んだのは、もう3年前らしい。そんなに月日が流れるのは早いのか。年を取ったものだ。それに引き換え、本の中の人たちは年を取らないから、いつでも新鮮な感じで出会えるのは、嬉しいときもあるし、つらいときもある。でも、この人はいつ読んでも、変わらずに内田百閒でいてくれる気がする。
子供の頃から変わらないこだわりの強さがあり、自分を曲げないから許容範囲が狭そうなのだけれど、そのぶん心を開いた人に対しての情が、心配になるくらい深い。誰かを、何かを好きになるなら、このくらいとことん好きでいる方が悪くないな、と思える。
内田百閒「東京焼盡」
書いてあることは、本当にただの普通の日記だ。毎日あったこと、思ったことを、淡々と書いている。そこに差し込まれるように、警戒警報や空襲警報の時刻が記録される。何日かおき、1日おきであったものが、だんだんと毎日のこととして記される。それらは非日常で、異常のことであったはずなのに、いつの間にか日常に溶けこんでいく。あまりにも淡々と書き残され、普通のことになっていくことに、恐怖を感じる。
異常を異常として感知して、見ていなければ、いつだってそれが当たり前のことになってしまう。
戦争の最中でも失わないこの人の目線が、やっぱり私は好きだなあ、と思う。
映画「ミツバチのささやき」
20年ほど前に一度見て、ものすごい衝撃を受けた感覚だけが残って、ストーリーをまったく覚えていない、という不思議な映画で、できればまた見たいな、と思っていたら、なんと映画館で上映されると知り、行ってきた。なるほど、これはストーリーを覚えていなかったのも、なんとなくわかる。ストーリーが好きとか、映像が好きとか、いろいろあると思うけれど、たぶん、感覚的に好きだ、と思ったのは、この映画くらいじゃなかろうか。
映画はとても静かに展開していき、会話も少ないため、すべてのことに説明はない。あらゆることに謎が残る。後で調べてみたら、内戦から独裁政権の時代が背景にあり、それらがモチーフになっているのではないか、という感想を読んだ(この人物はあの時代のあの人で、みたいな)。その歴史もよく知らず、宗教的な考え方や文化の価値観も知らないせいか、ストーリーをよく理解することは、たしかにできない。
でも、そういうことを知らないまっさらな状態で見ると、私には、子供の無邪気さ、好奇心、純粋さによる、あまりにも真っすぐな残酷さが映っているように思う。死さえも、子供にとっては知的好奇心をくすぐるだけのものなのかもしれない。
無垢なまま何かを信じることは、美しいことのように思えるけれど、それは同時に、自分以外の何かにすべてを預け任せるということにもなる。それは、宗教や何かの体制や思想を信じることに危うさを感じることに似ている。
私は、ただこの主人公の目を見るために、この映画を見にいったような気がした。
茨木のり子「倚りかからず」
本屋に行って、棚の間をぐるぐると巡り、ただぼんやりと眺めているだけなのに、時々、今読むべき本を何故か買って帰る、ということが起きる。ものすごく不思議で、少し怖い。でも、だから、本を買ってしまうような気がする。
この本も、そうして自分の元にやってきた。様々なできごとや、経験や、過去と呼ばれるものを、自分の中にためて、浮かび上がってきた何かを、削ぎおとした言葉で、スッと真っすぐに突き出す。研ぎ澄まされた言葉を、読む私がどう受けとめるか。鋭すぎて、受け入れられない人もいるかもしれない。真っすぐな言葉の表現は、読む側も、書く側も、本当は怖いし、傷つくこともあるような気がするのに、この人はそれでも真っすぐに書いてくる。
表題作が、特に突き刺さって、しみる。今のこの瞬間に、自分を鼓舞したい。