「群像10月号」

 

群像 2016年 10月号 [雑誌]

群像 2016年 10月号 [雑誌]

 

 発売されて、なんとか紙版を購入し、それからずーっと読んでいたわけで。つまり、約半年は、だらだらと、寝る前にこれを読んでいた。かなりの分厚さと重さなので、どうしても出かけるときに持っていけなくてね…。

 

そんなわけで、かなりのボリュームだった。70年って、自分からは遠く思えるけど、こうやって1冊に凝縮されると、そう長くはない時間なのかもしれないな、と思えてくる。日本の文学の歴史だけを見れば、1500年以上はたぶんあるのだから、そのうちの70年間が見れた、ということになる。そう考えれば、短い。でも、濃い。

 

それにしても、70年前には三島由紀夫太宰治も生きていたんだなあ。同じ本の中に、死んだ人と今生きている人の文章が収まっているのが、不思議な感じだった。今から70年後、いやそれより、私が死んだときには、どんな作家が生まれているんだろう。

丸谷才一「笹まくら」

 

笹まくら (新潮文庫)

笹まくら (新潮文庫)

 

2ヶ月ぶりの更新になってしまった。ええと、あけましておめでとうございます…。

本を2冊同時に読む、ということをしているのだが、今の自分には無理な行動であった。でも、まだもう1冊読み終わっていないので、しばらくはこののろのろなペースで更新することになりそう。

この本は、わりとさくさくと読んでいる、と思っていたのだけど、2ヶ月も経っていた。時間の経過を感じさせない、文章の流れの中にいたからだろうか。

1人の人間が、別人として生きた過去と現在が対比されるように書かれているのだけれど、結局のところ、同一人物でしかないということを思い知らされる。対比も、分割も、実際はできなくて、何十年という1人の生きた時間は、すべて地続きなのだなあ。過去と、現在と、どちらが本物で、どちらが真実で、どちらが事実なのか。裏を返せば、生きている人たちは皆、嘘をついて、虚構に生きているのかもしれない。

 

映画「ジャニス リトル・ガール・ブルー」

 

ジャニス:リトル・ガール・ブルー

ジャニス:リトル・ガール・ブルー

 

 ジャニス・ジョプリンの音楽は、10年くらい前から聞くようになったのだけれど、テレビのドキュメンタリー番組なんかを見ても、この人のことを掴みきれなかった。映画をやると聞いて、もう少しわかるかなあ、と思って、観にいってみた。

 

けど、やっぱり、他人のことはわかるわけがないね。同じ時代を生きたわけでもなく、そのときの空気感を知れるわけでもなく、まして話したこともない人を決めつけることなんて、私にはできない。ただ、映像に残るジャニス・ジョプリンは、人に向けて無邪気な笑顔を向けるのだけれど、そのあとすぐに、悲しそうな、不安げな表情になる。それがすごく印象的だった。

 

とりあえず、見たことのないライヴの映像が見れて、よかった。もうちょっとライヴシーンが長くてもよかったけど。

能町みね子「逃北」

 

 この人の本を、どれから読もうか、と悩んでいるときに、この本が出ることを知る。曲がりなりにも東北に住んでいる者として、気にならずにはいられない。そして、収録してある対談の相手が宮城県出身の人、というのを見て、買うことを決意する。

 

どうでもいいことだけれど、東北の人ってたぶん、東北出身者の人をなんとなく応援している。出身県だけではなく、東北地方全体でひとつの仲間だと思っているところがある(その中で、仙台はわりとハブにされることもあるが)。だから、楽天イーグルスに東北ってついてても特に違和感はないし、甲子園のときは東北地方から出場する6つの高校全部を応援する(挙句北海道の高校まで応援していることもある)。こんなことを言ったら、南の方の人に「信じられない!」と驚かれたことがある。いや、むしろ、隣の県にそんなに敵対心剥き出しの方が、オレたちには信じられないんだけど…。

 

そんな東北に暮らす私にとっては、東北地方に逃げる、という感覚は、そりゃあない。私の家がよく車で出かけるから、というのもあるのかもしれないけど、東北地方は日帰りでちょっと出かけるところ、という感じ。久々にこの前、釜石に泊まったけれど(それもSL銀河に乗りたくて行っただけで、特に何かを見たわけでもない)、正直、ここで暮らしていくのは大変だろうなあ、という感想しかない。東北地方の人たちは大概、こんなところで暮らしていくのは大変だよ(東京から来た人なら尚更)、という気持ちがあって、他の地域から来た人に、なんで来たんだ、とものすごく訝しむ癖がある。ありがたいなあ、という気持ちよりも、おっかなびっくりな気持ちの方が先行するのはそのせいのような気がする。

 

こうして、北へ逃げたい、と思ってくれる人がいることは、ありがたい。でもやっぱり、ちょっと怖いなあ、とも思う。そう、北の人は排他的なのよ(そのぶん仲良くなれば、とても優しいのも事実)。

スティーブン・ミルハウザー「エドウィン・マルハウス」

 

 随分ゆっくりと読んでしまった。前半の、遅々として進まない、やたら細かい文章(見開き一杯に文字だらけというページがざらにある)。これを小学生が書いている、というにしては、だいぶくどい。でも、そのくどさにだんだんとやられていく。

 

子供が書いた幼なじみの子供の伝記、という体なんだけれど、これは本当に伝記と言えるんだろうか。この伝記の作者であるジェフリーは、エドウィンの観察者であろう、としているのだけれど、話が進むにしたがって、だんだん怪しくなってくる。前半ではたしかに、エドウィンをただ見ている観察者なのに、年を取るとエドウィンの人生にどんどん侵入してくる。子供だからなのか、無自覚に相手を思うように動かそうとして、結末を思い描いたとおりに迎えようとしている。ジェフリーは、エドウィンの伝記を書こうとしているのではなくて、エドウィンの人生を作ろうとしているんじゃないか、と思ったら、あまりの無邪気さにぞっとした。

 

たぶん、伝記じゃなくて、小説を書きたかったんじゃないかなあ。伝記という形をとって、エドウィンよりも素晴らしい小説を書けると思いたかったんじゃないかなあ。子供だから、無自覚に見えるけど。怖い。

 

どうでもいいけど、本を買うときに、エドウィン・マルハウスとスティーブン・ミルハウザーとどっちが題名で作者名だ、と思いながら本屋をうろつく、という思いで付きである。