安部公房「砂の女」

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 一度読んだはずなんだけれど、本棚を探してもなくて、実は読んでなかったのだろうか。でも、既視感があったから、たぶん読んだんだろう。どこへ行ったのやら。

 

始終、怖いなあというか、気味が悪いなあというか、不安だなあ、というあんまりいい気分にはなれない話。この人の話って、だいたいそういうものだと思うけど。最初の方は、謎解きしていくような、主人公がどうやって現状を解決するかを事細かに書かれているのに、いつの間にか、主人公の心情が変化していくことにスポットライトが当てられ、あれれ、という感じ。冒頭で結論が出ているサスペンス風味の話なんだけれど、たしかに事件の話でもあるのだけれど、結論や結果まで、過程のじわじわと心情を侵していく出来事が、居心地悪い。

 

最近は、田舎暮らしを美化する感覚もあるけど、それって本当のところはどうなんだろう。土着とは果たして何なのだろう。郷土を愛する、という気持ちは、本当のものなんだろうか。人は簡単に(もしくは強制的に)変化するんじゃないのかしら。

 

ちなみに、なんで読み返そうと思ったかというと、spoken words projectという来期の服のテーマが、この話らしい、と聞いたからである。どうなっているのかなあ。

夏目漱石「倫敦塔・幻影の盾」

 

倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫)

倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫)

 

 以前読んだ本をまた読み返す期間、と勝手に題して、これからしばらく読んだことのある本を読んでいこうかなあ、と思っている。まあ、だいたいの本は5年以上前に読んで、それからずっと読んでいないので、内容忘れていて、はじめて読んだのと変わらないけど。

 

この本ははじめて読んだときは、よくわからないなあ、と思っていたけど、今年のはじめにロンドンに行ったからか、ぐっと想像しやすくなった。やっぱり、実際に見たことがあるかないかで、想像の範囲って変わるなあ、と実感。正直、文章は小難しい。というか、当時の言葉は、今生きている人とは違う。この言葉の変化を乗り越えれば、ロンドンの景色が近くなるんだけどなあ。

よしもとばなな「さきちゃんたちの夜」

 

さきちゃんたちの夜 (新潮文庫)

さきちゃんたちの夜 (新潮文庫)

 

 図らずも、短編続き。

 

この人の本を、ひたすら読んでいた頃があったなあ、思春期だったなあ、と読みながら思い出した。学校とか勉強とか、そういう見えるものの基準よりも、見えないけれど確かなものがある気がする、ときっと探していたんだろうなあ。今でも、見えないものを信じるのは、こうやって本をずっと読んできているからかもしれない。

 

この人の話には、今で言うスピリチュアルっていうようなものがよく出てくるんだけれど、都合がいいなあ、と思う反面、こういうことってそういうもんだよね、とも思う。人間って、突然そういう力を発揮しちゃうもんだ(少しだけ心当たりがある)。様々なさきちゃんたちが、それぞれの夜を、1日1日を過ごして、少しずつ越えていく。人の体は1人で時間を経過していくけれど、体の外側では、1人ではなくて、いくらかの人と関わって生きていく。そういう関わりの中で、体の内部が変化しているような、そんな気分になる本だった。

岸本佐知子「居心地の悪い部屋」

 

居心地の悪い部屋 (河出文庫 キ 4-1)

居心地の悪い部屋 (河出文庫 キ 4-1)

 

 表紙からしてもう、居心地が悪いね。この本自体が居心地の悪い部屋となって、どん、と開かれるのを待っている。読む人がこの本を開いたら、扉は完全に閉められて、読み終わるまで、ずっと居心地の悪い気持ちでいなければならない。そわそわした感じ、もやもやした感じに絡まれつづけて、本を閉じると、ほっとするんだけど、でもなんかもう一回入っておくか、を繰り返す。

 

短編というのは、このもやもやした感じが堪らなくて、私は一時期短編しか読まなかったこともある。この本はまさに求めていた感じ。最近だけではなく、昔から英米文学の方がこういう話が多いのかなあ。ちょっとだけ、安部公房を思い出したけど。

ジュール・ルナール「にんじん」

 

にんじん (新潮文庫)

にんじん (新潮文庫)

 

 10年ほど前に、学校の先輩の本棚にあったこの本。「小説はこれしか持っていない。これしか好きじゃない。」と、たしか言っていた。それをふと思い出して、私は手に取ったのだけれど、いったいどんな気持ちで、先輩はこの本を持っていたのだろう。読み終わったときに、少し考えこんでしまった。

 

今の言葉で言えば、虐待を受ける子供の話、ということになるのだろうか。とにかく、この本の中でずーっと主人公は母親にいじめつづけられる。少年期から思春期くらいまで、主人公はどう考えても、かわいそう。ただそれは、どうして母親が虐待するのかとか、母親やその他の人から主人公がどう見えるかとか、そういうことは一切書かれていなくて、主人公のことだけに話が集中しているからかもしれない。

 

主人公である、にんじんの本名はついに出てこなかった。にんじんという人格であると主人公が思い込んでいるのか、自身ではなくにんじんという人格が虐待されていたと思わないと書けなかったのか、そう考えると、虐待は終わっても、虐待が心に残したものの根の深さにつらくなる。